わが故郷 ~二宮尊徳復興の地~(2012/9/12)宮田由実子

私は栃木県の二宮町というところで高校卒業までの18年間を過ごしました。

今は市町村合併し、真岡市になってしましました。
二宮町に愛着があったので寂しい限りです。
二宮町の町名は二宮尊徳(二宮金次郎)によって復興されたことに由来します。

二宮尊徳は江戸時代後期の農政家&思想家です。
一般的には薪を背負って本を読む「二宮金次郎の銅像」で有名です。
尊徳の青年期までの呼び名が金次郎です。

金次郎は青年期に日夜働きながら、寸暇を惜しんで「論語」「大学」「中庸」を読み、
「勤勉」につとめたそうです。それが薪を背負った二宮金次郎の銅像に表現されたそうです。
また、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、
いずれ自らに還元されるという「報徳思想(ほうとくしそう)」を説いた人物であり、
農村復興政策・農村復興政策の指導者としても広く知られている。

尊徳は1787年、小田原市郊外の豊かな農家に生まれました。
しかし13歳で父を16歳で母を亡くし、耕地も洪水で失い、生家が
没落という不幸に見舞われました。
尊徳は、伯父の家で苦難の青年時代を過ごし、農家の仕事に励むかたわら、
荒地を耕し、わずかに残った生家の田畑を小作に出すなどの工夫をして
収入を増やしていきました。
24歳のときに、独力でついに一家を再興し、
その才を買われて奉公した小田原藩家老、服部家の財政の建て直しにも成功しました。
1822年、小田原藩大久保家の分家で旗本の宇津家の所領下野国桜町
(現在の栃木県芳賀郡旧二宮町周辺)の復興に抜擢されたのです。
では、二宮尊徳はどのようにして桜町を復興したのでしょうか?
桜町領は公称4000石でしたが、実際に上がる年貢は1000石に満たない状態でした。
桜町領内では争いが絶えず、土地は痩せ、農民の収入はなく、
多くの借金を背負っていました。
貧困にあえぐ農民は無気力で怠堕になって酒に溺れ、賭博に狂い、
窃盗を行なって田畑には一面にヨシやススキが生い茂っていたそうです。
耕地の67%が荒れ地となっているにもかかわらず、
4000石という“格式を保つため”借金を重ねていたのです。
そこで尊徳は「至誠」「勤労」「分度」「推譲」の思想を説き、桜町を復興しました。

「至誠・しせい」
至誠とは真心であり、「我が道は至誠と実行のみ」という言葉のとおり、
尊徳の仕法や思想、そして生き方の全てを貫いている精神です。

「勤労・きんろう」
人は働くことによって、生産物を得て生きていくことができる。
また、働くことを通して知恵をみがき、自己を向上させることができると説きました。

「分度・ぶんど」
人は自分の置かれた状況や立場をわきまえ、それにふさわしい生活を送ることが
大切であり、収入に応じた一定の基準(分度)を設定し、その範囲内で生活することの
必要性を説きました。

「推譲・すいじょう」
節約によって余った分は家族や子孫のために備えたり(自譲)、他人や社会のために
譲ったり(他譲)
することにより、人間らしい幸福な社会ができると尊徳は考えました。

桜町で尊徳は以下のように説き、復興を成功させました。

① 1年かけて毎日農家を一軒一軒訪ねて、農民に対して「勤勉」を説いた。

② 領主宇津家の「分度」を1000石と定め、10年後に2000石とすると約束した

③ 桜町領は3000石を超える“実質上”豊かな村に生まれ変わったが、
   目標を超えた1000石は宇津家へ渡さず、農民に還元し石高を増やせるよう、
   農具等の投資に回せるようにした「推譲」

尊徳はその後関東の600余町村の窮乏と荒廃を救済するために活躍しました。

二宮尊徳の思想はトヨタ自動車の創始者の豊田喜一郎や
パナソニック創始者の松下幸之助など、たくさんの名経営者の事業経営に
影響を与えたと言われています。
尊徳の思想は不況に強い経営の手本とも言われています。

尊徳の思想にはきっと長引く不況を打破し、震災後の日本の復興へのヒントが
あるのだと思います。